日蓮聖人・日蓮宗について

日蓮聖人について

日蓮聖人は、鎌倉時代中期に活躍した僧で、今日の日蓮宗の開祖にあたる人物です。

貞応元(1222)年、安房(現、千葉県)に生まれた日蓮聖人は、鎌倉・京都などで研鑚を積み、建長5(1253)年、故郷に帰って、法華経信仰の布教を始めます。その布教の姿勢が、純粋に釈尊の教えを求めようとするものであったため、他の宗派との間に軋轢を生じました。

また『立正安国論』に代表されるような幕政批判を行ったことで、鎌倉幕府から激しい弾圧を受けました。
しかし、日蓮聖人は不屈の精神でこれを乗越え、正しい信仰に基づく正しい生き方、人間社会の正しいあり方を教示されました。

弘安5(1282)年、日蓮聖人は61歳の波乱に満ちた生涯を終えますが、その信仰は弟子たちによって広く弘められ、今日の隆盛をみます。

日蓮事蹟略年譜

和 暦 西暦 事    蹟 年齢
貞応元年 1222 安房国小湊に誕生。 1歳
天福元年 1233 修学の為、清澄寺に登山、道善房に師事する。 12歳
嘉禎3年 1237 出家、是聖房と名乗る。 16歳
暦仁元年 1238 鎌倉遊学。 17歳
仁治3年 1242 京畿遊学。 21歳
建長5年 1253 4月28日、立教開宗。この頃から日蓮と名乗る。 32歳
文応元年 1260 7月16日、『立正安国論』を述作し、前執権北条時頼に上奏(第一国諫)。
8月27日、鎌倉の草庵を夜襲される【松葉谷法難】。
39歳
弘長元年 1261 5月12日、伊豆国伊東へ流罪【伊豆法難】。 40歳
弘長3年 1263 2月22日、伊豆流罪を赦免。 42歳
文永元年 1264 11月11日、安房国長狭郡で東条景信に襲撃される【小松原法難】。 43歳
文永8年 1271 9月12日、佐渡流罪を言い渡され、平頼綱に捕らえられる。この際、頼綱の暴挙を諫める(第二国諫)。13日未明、鎌倉片瀬龍口で斬首されかける【龍口法難】。 その後、身柄を依智に送られる。弟子の日朗らも鎌倉で投獄される。
10月10日、相模国依智を発ち、28日、佐渡に配流。
50歳
文永9年 1272 1月、佐渡塚原で念仏者と問答(塚原問答)。
2月、『開目抄』を述作。
同月、京都・鎌倉で二月騒動おこる。
4月、佐渡一谷に移る。
51歳
文永10年 1273 4月、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を述作。 52歳
文永11年 1274 2月14日、佐渡流罪を赦免。
3月13日、佐渡出発、
3月26日、鎌倉帰還。
4月8日、平頼綱に蒙古襲来の近きことを諫言(第三国諫)。
5月12日、鎌倉を発ち、17日、身延入山。
10月5日、文永の役勃発。
53歳
建治元年 1275 6月、『撰時抄』を述作。 54歳
建治2年 1276 かつての師匠である道善房の死去の報に接し、7月21日、『報恩抄』を述作。 55歳
建治3年 1276 6月、門弟の三位房日行・四条頼基らが龍象房と問答(桑ヶ谷問答)。 56歳
弘安元年 1278 三度目の流罪の噂立つ。 57歳
弘安2年 1279 8〜10月、駿河方面の門弟に弾圧が及ぶ(熱原法難)。 58歳
弘安4年 1281 6月、弘安の役おこる。 60歳
弘安5年 1282 9月8日、病のため身延下山。18日、武蔵国池上邸に到着。
10月13日、池上宗仲の館にて入滅。
61歳

日蓮宗とは

日蓮の死後、後事を託された弟子たちは、関東地方およびその周辺で教団を形成しました。14世紀には関西方面にも進出し、室町時代には京畿西国に定着をみます。こうして、都市・農村にも信仰集団がつくられ、各地で寺院が建立され、本寺・末寺が形成されることとなりますが、一方で、布教方法や法華経解釈の相違などから、教団の分派をみます。
近世以降は、日蓮教団も江戸幕府の宗教政策下におかれ、また各教団はそれぞれ一致派と勝劣派とに分派統合されるようになりました。
近代になって、一致派教団は日蓮宗と公称し、勝劣派教団も、日蓮正宗・顕本法華宗・法華宗(本門流・陣門流・真門流)・本門法華宗・日蓮本宗などと公称しました。